信州の鎌倉・別所温泉と安楽寺八角三重塔

和の湯紀行 — ブレきゃんからの手紙

別所温泉、
また旅したいと思えた
あなたへ

「温泉、行きたいな」

先日のお手紙は読んでいただけましたでしょうか。
今回は、伊香保と同じく 真田の領内 にある別所温泉をご紹介しようと思い、
ふたたび筆をとりました。

……さて。

「温泉、行きたいな」。
そう思える瞬間は、もう訪れましたか。

治療と検査が続いていたあの頃は、
楽しみのことを考える余裕も
あまりなかったように思います。

そんな日々を経て、あなたが
「どこかへ行きたい」と思えているなら、
私もとてもうれしいです。

この手紙でご紹介するのは、信州・上田市の山あいにある「別所温泉」という場所です。

『日本書紀』のころから人が湯につかってきた、
信濃国(しなののくに、いまの長野)最古とも言われる古湯。
鎌倉時代には北条氏が別邸を構え、「信州の鎌倉」と呼ばれるほどに寺院と文化が集まりました。

戦国時代には、上田城を本拠とする 真田家 の領内に。
関ヶ原のあと、真田信之公が領主だった二十年余、
別所の湯は、真田家のひざもとで守られていきました。

国宝・安楽寺の八角三重塔、北向観音、上田紬を扱う工房、
くるみだれ蕎麦に、信州の地酒。
歩いて一時間圏内に、何百年もの時間が、ぎゅっと畳まれています。

すぐに荷物をまとめなくて、大丈夫。
湯のみのお茶が冷めるくらいの時間をかけて、
ゆっくり読んでください。

読み終わったとき、「今度の連休、行ってみようかな」と
あなたが思えていたなら、私はとても嬉しいです。

(先に宿だけ見たい方は、⑤ おすすめの宿 へ →)

信州の鎌倉、別所のはじまり

別所温泉の歴史は、はっきりとは分かっていません。
ただ、『日本書紀』の頃から人がこの湯を訪れてきた、ということだけは確かなのです。

伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途上で発見し、
戦国の英雄 木曽義仲 が傷を癒した、とも語り継がれています。

鎌倉時代の塩田北条氏 ── 信州の鎌倉

別所温泉が「信州の鎌倉」と呼ばれるようになるのは、鎌倉時代のことです。

鎌倉幕府の執権北条氏の一族、塩田流北条氏が、
この別所のすぐ近くにある塩田平(しおだだいら)に別邸を構え、
鎌倉から離れた信州の山あいに、
鎌倉に勝るとも劣らない密度で寺院と文化が築かれていきました。

国宝・安楽寺八角三重塔
国宝・安楽寺八角三重塔

その遺産が、今も歩いて一時間圏内にそのまま残っています。

安楽寺の八角三重塔は、日本で唯一の八角形の木造塔で、国宝。
中国・元の建築様式を伝える、鎌倉時代後期の貴重な姿です。

常楽寺の石造多宝塔は、北向観音の本坊にあたるお寺で、重要文化財。
そして、湯治場の頂きに鎮まる北向観音は、
長野善光寺と「対」になる本尊として、長く信仰されてきました。

戦国〜江戸の真田氏 ── 上田の英雄たちの温泉領

時代が下って戦国の世になると、別所温泉は、
上田城を本拠とする 真田家 の領内に入ります。

真田家の物語をご存じの方なら、すぐにあの三人の顔が浮かぶかもしれません。
真田昌幸真田信之真田信繁(幸村)

――じつは、伊香保温泉の石段街を整備したと伝わるのも、
武田勝頼の家臣だったころの、若き日の真田昌幸でした。
上野国の伊香保で湯治場を設計したのち、
武田家の滅亡を経て、真田は信濃・上田に独立勢力として拠ります。
そして、その上田領内に、別所温泉がありました。

関ヶ原の戦い(1600年)のあと、
父・昌幸と弟・信繁は和歌山の九度山に流罪となり、
東軍に付いた長男 真田信之 が上田藩主として残ります。

信之公が別所を含む上田領を治めていたのは、1600年から1622年までの 二十二年余
北向観音を篤く信仰したと伝わり、
上田紬の発展もこの真田家の時代にあったと言われています。

この時代を、池波正太郎が 『真田太平記』(全十二巻)に克明に描いています。
NHKの大型時代劇『真田太平記』、近年の大河ドラマ『真田丸』のもとになった作品です。
別所を歩く前にひとつでも目を通しておくと、塩田平の風景がぐっと立体的に見えてきます。

文人たちの別所

近代に入っても、別所温泉は文人たちにひっそりと愛されてきました。

川端康成はこの地に滞在し、短編『花のワルツ』を書き、
与謝野晶子北原白秋も滞在の歌や言葉を残しています。
中央から離れた信州の山あいに、文人たちが何を求めて訪れたのか。
歩いてみると、なんとなく分かる気がする町です。

私が好きな歩き方を、ひとつ

別所での過ごし方は、人それぞれだと思います。
ただ、もしよろしければ、私が好きな歩き方を一つだけ お伝えさせてください。

朝、北向観音にお参り

別所温泉駅から坂を上ること数分、北向観音の参道があらわれます。
観音堂は、その名のとおり 北を向いて 立っていて、
ちょうど善光寺と向き合うように鎮まっています。

ぱんと手を合わせるとき、
祈ることが多すぎて言葉にならない日もあるかもしれません。
そういう時は、ただ「今日もここまで来られました」とだけ、
胸の中でつぶやいてみてください。

三寺巡り ── 常楽寺、安楽寺へ

北向観音の本坊にあたるのが 常楽寺
境内のひっそりとした石造多宝塔と、見上げる松の枝ぶりが、
鎌倉時代の静けさをそのまま残しているような場所です。

そして、もう少し奥に歩くと 安楽寺
木立を抜けたところに、国宝・八角三重塔が、しずかに立っています。

日本で唯一の八角形の木造塔。
鎌倉時代の禅僧たちが伝えた、中国・元の建築の姿。
周囲に観光客が少ない朝早くにお参りすると、
七百年前の空気が、ふっと近くなる瞬間があります。

上田紬を着て、別所の路地を歩く

もし時間に少し余裕があれば、上田紬を着てみてください。

別所温泉駅近くにある「ゆた香家」さんでは、
地元の上田紬のレンタルができます。
真田家の領主時代に発展したと伝わる、信州を代表する織物です。

治療や検査が続いた日々を経て、ふだんと違う装いで、別所の路地をゆっくり歩く。
自分でも忘れていた、「おしゃれを楽しむ」という感覚が、
ふと戻ってくるかもしれません。

くるみだれ蕎麦と、信州の地酒

お昼どきには、ぜひ くるみだれ蕎麦を一杯。

信州はもともと、米が育ちにくい山国で、
蕎麦は「生きるための作物」として何百年も人々を支えてきた食べ物です。
別所のあたりでは、すり潰したくるみの実を蕎麦つゆに溶いて食べる
「くるみだれ」が、塩田平らしい流儀として今も残っています。

夕暮れには、信州の地酒を一献。
上田の蔵の 亀齢(きれい)福無量(ふくむりょう) ……
季節ごとに違う表情を見せる、土地の味を楽しんでください。

(もう宿を予約したくなった方は、⑤ おすすめの宿 へ →)

別所だけじゃもったいない、信州のこと

せっかく信州まで来たなら、別所だけで終わらせるのは、ちょっともったいない。
無理のない範囲で寄り道できる場所を、いくつかご紹介します。

上田城と、真田神社

別所温泉から、上田電鉄別所線で 30分ほど。
終点の上田駅で降り、徒歩 10分で 上田城に着きます。

上田城と真田神社
上田城本丸跡の真田神社

天守閣はありませんが、
江戸時代から残る 西櫓(にしやぐら) や、
真田昌幸が築いた堀と石垣が、いまもそのまま残っています。
本丸跡には 真田神社 が建ち、昌幸・信之・信繁三代を祀っています。

徳川秀忠の三万八千の大軍を、わずか二千で釘付けにした第二次上田合戦。
石垣の前に立つと、その日のことを思い描かずにはいられません。
春には堀の千本桜が満開になります。

塩田平と、上田紬の里

別所温泉から上田駅の途中に広がるのが、塩田平
鎌倉時代の北条氏の別邸跡や、ため池が点在する、信州でいちばん古い田園風景のひとつです。

上田紬を扱う工房も塩田平に点在していて、
機織りの音を聞きながら、糸の艶や織りの細かさを眺める時間は、
別所の旅をもう一歩深く味わわせてくれます。

(旅の予定が見えてきた方は、⑤ おすすめの宿 へ →)

私がおすすめしたい、5つの宿

別所温泉の宿は、規模の大きな旅館は多くありません。
そのなかから、「静かに、自分の時間で過ごせる」ということを軸に、
5軒だけ、私のおすすめをお伝えします。

最初にご紹介する 緑屋 は、ピンクリボン温泉ネットワークに加盟している宿で、
バスタイムカバー(湯あみ着)の着用にも理解があります。
ほかの4軒も、客室風呂や貸切風呂、お部屋食といった「人目を気にせず過ごせる」工夫があります。
気になることがあれば、予約時に直接宿に確認するのが安心です。

別所温泉 緑屋(みどりや)

別所温泉のなかで唯一の ピンクリボン温泉ネットワーク加盟宿。
「陣屋」系列が運営する、小規模で静かな宿。
湯あみ着OK、貸切風呂あり。
「とにかく人目を気にせず、ゆっくりしたい」あなたへ、まずおすすめしたい一軒です。

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別所温泉 旅館 花屋

大正六年(1917年)創業の老舗。
広い庭園と、本館・離れの建物群は 国の登録有形文化財
離れに客室露天風呂付きのお部屋もあり、別所のなかでもっとも格式高い滞在ができます。
「上質な大正ロマンに身をゆだねたい」あなたに。

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信州別所温泉 玉屋旅館

別所温泉駅から徒歩 7 分の、長く愛されてきた中規模旅館。
上州牛ではなく 信州牛 を中心に、地元の食材を活かした会席料理が評判です。
源泉100%かけ流しの内湯と、別所らしい落ち着いた佇まいで、リピーターも多い一軒。

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別所温泉 旅館 中松屋

享保年間(江戸中期)創業、およそ 300年続く老舗
最上階の展望露天風呂からは、塩田平を見下ろせます。
源泉100%かけ流しの湯を 24 時間楽しめ、館内すべて畳敷きの純和風。
「歴史のある宿で、ゆっくりと湯に浸かりたい」あなたに。

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別所温泉 南條(なんじょう)旅館

別所温泉街の中心、北向観音参道のすぐそばに建つ、こぢんまりとした宿。
散策の起点として便利で、館内は静かに過ごせる落ち着いた雰囲気。
「歩いて回るのを楽しみたい」「予算は抑えめに、けれど雰囲気のある宿で」というあなたに。

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旅の前に、もうひとつだけ

お話の最後に、旅の前に確認していただきたいことを、いくつか。

まず、体調のこと。
抗がん剤治療中、放射線治療中、ホルモン療法による ホットフラッシュが強いとき。
長時間の入浴や移動は、思った以上に体力を使います。
無理せず、主治医に「温泉に行ってもいい時期ですか」と 一言相談してから出かけるのが安心です。

次に、季節と標高
別所温泉は標高およそ560メートルで、夏でも空気がひんやりとしています。
おすすめは新緑の5月から、紅葉の11月上旬まで。
冬は雪に包まれた塩田平が美しい一方、凍結や寒さに弱い方は、暖かい時期を選ぶのが安心です。

そして、傷あとや人工乳房への配慮
別所温泉でピンクリボン温泉ネットワーク加盟は 緑屋 です。
他の宿に泊まる場合は、予約時に「湯あみ着を着用したい」と伝えておくと、
貸切風呂の手配などで対応してもらえることが多くあります。

詳しくは ピンクリボン温泉ネットワーク加盟宿一覧 もご覧ください。

また、お便りします

長い手紙になってしまいました。

別所温泉のはなしは、ほんとうはまだまだあるのです。
塩田平のため池に映る夕焼けのこと、
上田の小料理屋で出会った地酒のこと、
別所線の小さな車窓から見える夏雲のこと、
書ききれなかったことが、たくさんあります。

でも、ぜんぶ一度には伝えきれませんから、
あなたが別所を訪れたあとに、もう一度この手紙を読んで、
「次はどこを歩こうかな」と思ってくださると、
私はとても嬉しいです。

――そして、もし覚えていらっしゃれば。
以前お送りした手紙で書いた、伊香保の石段街を整備したという真田昌幸。
その昌幸の長男・信之公が、関ヶ原のあと別所を含む上田領を治めました。
上野国の伊香保と、信濃国の別所温泉は、四百五十年の時を越えて、
ひとつの家の物語でつながっているのです。

次は、関東きっての名湯 箱根温泉のはなしを
手紙にして送りたいと思っています。

読んでくださって、本当にありがとうございました。

あなたの毎日が、穏やかな時間で すこしずつ満たされていきますように。

敬具

二〇二六年 初夏
乳腺外科医 ブレきゃん!

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